「第二回 大の会」ありがとうございました

レポート

「大の会」御来場賜りました皆様、この度は誠にありがとうございました。

そしてお越しになれなかった方々からも沢山のご声援頂戴しました。。

この場をお借りしまして厚く御礼申し上げます。

6月12日、前の日とは打って変わっての晴天でした。

雨男主催の「第二回 大の会」は、師匠山階先生がスケールの大きな「晴男」でいらっしゃったおかげで気持ち良い1日。

この会をすると動き始めたのは令和元年。
春頃から出演依頼を始めたかと記憶しております。

観世ご宗家へは、東京へ参り7月に自らご依頼申し上げ、お引き受けいただきました。
演目が決まったのはその年の秋。

山階師からいくつか候補曲を挙げていただき、その中に「融」もありました。
しかも、「舞返之伝」という特殊演出を付けても構わないとお許しも。

私が「融」を選んだ理由は、「舞返之伝」を演じてみたかったのもありますが、
そもそもは母の追悼をしようと思った為でした。
私が能楽師になって、新聞記事やメディアに出たり、舞台に出演するのを嬉しそうに人に話していたそうです。

着実と企画を進め、
チラシも出来上がり
宣伝活動が始まり、
事前講座も行い、
勿論稽古も始めておりました。

令和2年2月下旬頃から3月頭にかけて、「新型コロナ感染」の危機が我々を襲います。

数々の舞台が中止や延期になり、「大の会」もやむなく延期に。

しかし、是非企画をしていた同じキャスティングで行いたく、一年後の同じ日に延期をする判断をしました。
印刷をしたチラシやチケットも無駄になり、でも捨てるに捨てられず。
稽古もする気になれず数を減らしました。

一年後の延期をお客様にお伝えしました所、ほとんどのお客様が快諾してくださり、熱いお言葉もいただきました。
他の舞台も含め、ほとんどの仕事がなくなる中でのこの皆様からのご声援は何よりも代え難いものでした。

令和3年になり、6月が近付いてきます。
チラシやチケットも日程を変えて再印刷をし、延期公演に臨みましたが…収まりかけたコロナ感染がまた猛威を奮いました。
直前の5月に、やはりまた2回目の延期をスタッフと決定。
さらに一年後の同じ日程に変更をしました。

そうして先日の6月12日を迎えました。

動き始めた時から数えると、三年。
この間に世間では、コロナ感染やウクライナでの戦争等沢山の方々が命を落としました。
私の周りでも、「大の会」を楽しみにされてた方が惜しくも他界されました。

母の追悼の為にと選んだこの演目。
遠慮深かった母からの声が聞こえてきそうでした。

「私はいいから、他の皆を偲んでやってほしい」

「融を舞う」事への高ぶりが起こり始めました。

私の「融」を皆様に是非ご覧いただきたいと強く願うようになりました。

何回も行っていた筈の事前講座も各地で致しました。
大阪では、ワキ方江崎欽次朗さん、笛方斎藤敦さんにお越しいただき、「融」について熱く語っていただきました。

江崎さんからは当日使用する衣装の「腰蓑」を作っていただきました。
これは私にとって生涯の宝です。

斎藤さんは、本当に沢山の方々にお声掛けくださり、
当日は多数の斎藤さんご関係の皆様に御来場いただきました。

劇団空晴の皆様が当日の受付や場内整理等完全バックアップ。
その指揮ぶりは大槻能楽堂の事務所の方も「これまでにないプロぶり」と驚いておられました。
それにいつも東京での能meetsでお世話になるスタッフの方も駆け付けてくださいました。

能meets高知スタッフの皆さんからはお花とドリンクが。
楽屋に入れば先輩の水田雄晤さんから栄養ドリンクが。
まずその一本を一気に飲み干し気合を入れました。

その他本当に沢山の皆様からの応援を頂戴しました。
心から御礼申し上げます。

「融」舞台自体は、何故か分かりませんが落ち着いて勤めることができました。
俯瞰的にといいますか、クールに舞えたというか。
こちらも出演者やスタッフ始め皆様が支えてくださった故と感じています。

終演後も皆様から大変良かったと嬉しいメッセージを多数いただきました。
本当にありがとうございます。

「舞台は一人では出来ない」事を、
当たり前なのですがまた痛感しました。

この御恩に私がお応えできるのは、やはり「舞台」を勤めて皆様の心を動かす事のできる演技をお見せすることだと思います。

これからもより一層精進して参ります。

この度は誠にありがとうございました。