歳末助け合い協賛能で能《半蔀》
お知らせ憧れの光源氏と初めて二人で過ごすことが叶った夜、物の怪に憑りつかれ、源氏に看取られながら19歳の短い生涯を閉じた女、夕顔の君。
それからどれ位長い年月がたったのでしょうか。梅雨まだおさまらぬ暑い夏の夕方、京都の雲林院という寺で僧が「立花供養」を行っています。
「立花供養」とは、花への供養の事。花はいつも仏前に供えられますが、つまりはその都度花を殺生していることになります。その花を弔うのです。
恭しく供養を行っているところへ現れる一人の女。手には白い夕顔の花を持ち、その花の供養を願い出ます。
女「手に取れば手ぶさに穢る立てながら三世の仏に花奉る」
「手に取ってしまうと私の手で穢れてしまうので、このまま三世の仏に花を供えましょう」
僧はその花に目が止まり、その「白き花のおのれひとり笑みの眉を開けたるは」どのような花ですかと尋ねます。
女は、「この黄昏時になんと愚かな事を御尋ねなさるのですか。いやしかしながら名前も人の名のようですし、身分の低い家の垣にかかっている花だから、ご 存じないのももっともです。これは夕顔の花というのですよ。」と答え、
女「われはこの花の蔭より参りたり」
「名はありながら亡き跡に なりし昔の物語」
名はあったのですが今は私はこの世にないのですと言い、又遠い昔五条辺りに住んでいたとも答え、僧が脇見をした間に、女は夕顔の花のかげにすっと消えて いきました。
夏の夕刻、果たして夢だったのか、現実だったのか……。僧には何とも不思議な時間でした。
僧は不審に思い、五条辺りに来てみます。
僧「げにも昔のいまし所 さながら宿りも夕顔の 瓢箪しばしば空し 草顔淵が巷に滋し」
昔のままの荒れ果てた場所。ふと見ると半蔀(上半分を外側へ吊り上げるようにして開ける戸)がひっそりとあり、夕顔の花が咲いています。
そこには在りし日の夕顔の君が立っています。
女「蔾蕭深く鎖せり 夕陽のざんせいあらたに 窓をうがって去る」
その寂しい半蔀屋には蔾蕭(あかざという雑草)が深く茂って戸口を閉ざし、夕日の光が窓を通して差し込み、やがて消えていきます。
女はかつて詠んだ歌を口ずさみ、
女「山の端の 心も知らで行く月は 上の空にて絶えし跡の」
山(源氏)の心も知らないで連れ添った私(月)はもう命が絶えてしまったが、またいつか逢う事ができるのでしょうかと僧に問います。もう亡き身となった今でもなおあの人を想い、僧に弔ってもらえるよう約束し、半蔀を開け姿を見せます。
そして昔光源氏との出会いを思い出し語る夕顔。特に忘れられないのは、源氏がここへお越しになられた夕方、惟光を招きよせあの花折れと仰ったので、白い扇に香を焚きしめてこの花を折って差し上げた事。夕顔は昔を懐かしみ舞を舞います。
「終の宿りは知らせ申しつ 常には弔ひおはしませと」
ここが私の最期の住処でした。これからも弔い続けて下さいと僧に願う夕顔。
その内に鶏の鳴く声がし、鐘も鳴りはじめて夜明けがきました。明けない前にお暇をと、また半蔀の中に入り姿は消えていき、そして…僧の夢は覚めるのでした。
夕顔の花は文字通り夕方に咲き、朝までは続かずしぼんでしまいます。
夕顔の君も実に短い恋を僅かなひと時、精一杯楽しんだのでしょうか。そして、亡くなった今でも、体は風化してもその想いだけを胸に抱いて、どこかにそっと咲いているのでしょう。五条の白い花のように。
立花供養しているはずの僧の前には花はなく、白い花を持って登場するはずの女が実際には花を持たずに舞台に出る。雲林院から五条に移動したはずの僧はちっとも動かず、官能的ともいえる源氏との逢瀬の叙述は、「序ノ舞」という形式的な抽象的な舞でクライマックスを迎える。しかし、それを鑑賞する方には、ある時、その壮大な時空を超えた恋物語がさも目の前で起こっているかのような感覚に陥る。または可憐に咲く「白い花」が目の前に現れる。
非常にある意味で「演技しにくい」、また鑑賞する側も「分かりにくい」この曲に12月23日挑戦します。
能《半蔀》シテ 林本大(他にも能2番、狂言など)
日時:12月23日(水・祝)14:30〜
会場:大槻能楽堂(大阪市中央区。大阪市営地下鉄「谷町四丁目」10出口から徒歩6分)
料金:3,000円(当日3,500円、学生1,500円)
問い合わせ:林本大の会 hayashimoto@dainokai.com / 090-7345-0217
皆様是非お越しください。チケットお申し込みは大の会にて承ります。