板につく

レポート

先日、とある団体様対象に講座をさせていただきました。その後、その団体の方から、「先日の講座の内容、特にすり足の事を会報に掲載したいです」と依頼が。

夜中に、ない頭をしぼり考えました。せっかく苦労して生み出した文章ですので、ここにも転載させていただきます。

「板につく」

文字通り、すり足が舞台の床にくっついているかのような様から、技が熟練している事を表した言葉です。

能の舞の基本はこの「すり足」にあり、この足の運びであらゆる感情が表現されなければなりません。

舞の見せ所は、勿論時には華やかな、そして豪快な動きが魅力的ではありますが、その奥には、きちんとした「構え」が存在します。

動いていない「静」の状態がすでに何かを訴えかけているかのような説得力があるのです。
例えて言うならば、時速100キロ分のアクセルを踏みながら、同じだけのブレーキを踏んで止まっている状態で我々は構えを行っています。

その状態で静止しているからこそ、ようやく1足動き出すと世界が広がると申しますか、空間が動くのです。2足後ろに下がれば気持ちが内にこもったり、逆に2足ワキに向かって動けば、攻撃的に気持ちが外に向かっていきます。能の動きのその神秘を楽しむには、まずは「動いていない」その体を理解しないといけないように思います。

そうしてやっと動き出したその体や足で、例えば長年沢山の風雪に耐え抜いてきた老木の精の今までの人生を背負って、目付柱までまっすぐ歩いていく。例えばある女に恨みを持つ妻がその恨みを晴らさんと夜中にひたひたと貴船神社まで歩んでいく。

お客様にすれば、「歩みだけで表現をする」事への物足りなさがあろうかとは思いますが、能の舞の基本はそこにあり、我々はそこを怠って修行してしまってはどうしようもありません。

能の構えは「武士道」の影響を多分に受けていると言われています。

「神事」として始まった能楽は、いつの間にか、武士のたしなみになり、様々な名だたる武将が能を鑑賞し、または演技をします。豊臣秀吉は「能に暇なく候」と奥さんに手紙を送ったり、徳川家康は遺言に「能だけは絶やしてはならない」と残しています。

「武士は食わねど高楊枝」という言葉がありますが、能の動きもその言葉に表されるかもしれません。ぐっと息を詰めて、静止をするのですが、眼を血走らせて、歯を食いしばって青筋立てている所をお客様に見ていただくわけではありません。

「こんなに力入れてますよ、こんなに頑張ってますよ」という部分を内に秘めて、何事もなかったかのようにすっと立っている。若い時にはどうしてもそれが表面に出てしまうのですが、熟練すると、そういう「余分なもの」が消えていくものだと思います。

とにかく、お客様にとってはおそらく「不親切な表現」であることは間違いありません。

普段の演劇ならば、目の前に欲しい物があった場合、眼をギラギラさせて手を出しもがいているような演技をするはずですが、能の場合はその思いを自分の胸の内に込めて、ただその物の前でずっと座っている。

それこそが能の表現であり、だからこそ、お客様が各々で想像を膨らませる「余白」の部分が生まれます。

是非皆様、「余白」を楽しみに能楽堂にいらしてください。

観世流能楽師 林本大

写真は8月、「DOORS」という講座にて、すり足の解説を行った時の写真です。能を説明する時にはこの「すり足」は非常に重要なポイントです。