能の「楽屋」

能の世界では「入り時間」つまり、何時に楽屋に入るかというのは、決まっていません。

よくホールなどで能の舞台をつとめる際に、舞台スタッフの方から「当日は何時に皆様楽屋入りされますか?」と聞かれますが、私の答えは「さあ……分かりません。」

例えば13時開演の能の催しがあった場合、11時に入る人もいれば、12時の人も。13時過ぎてから自分の出番に間に合うように来る人も。

そしてまた、私達は楽屋での役割すら決められていません。もっとも、重要な部分は事前に決めておく事もありますし、舞台上での役割(シテや地謡など)は勿論事前に主催者からお願いされることはあります。

私達が当日の催しまでに渡される情報は「番組」という、誰が主役で、何の曲で、地謡が誰で、会場がどこで、何時に始まるかというプログラムです。

私達(特にシテ方の若手)は、その番組を元に、「自分は何時頃に入らないといけないか」を判断するのです。

その日の催しの番組の出演者を見て、自分が一番下っ端だなと思ったら、皆より早めに行こうと判断したり、能の衣装の準備が大変そうな曲だなと思えば早く楽屋入りしたり、逆に若手が多いからいいやと思えばゆっくりめに来る……。

また楽屋での仕事も、「あなた装束着付けお願いね」「幕上げしてよ」という言葉が飛び交うことはあまりありません。その時楽屋にいてる能楽師各々が、「僕は幕上げしよう」「装束の準備は手伝うけど、シテの人はあまり面識ないから着付けは遠慮しておこう」など。

もし誰も幕上げをしようと思わなければ、シテが舞台から帰ってきても幕は上がりません。皆が遅くに楽屋入りすれば準備に支障が出るでしょう。

11月11日、私の後輩の今村哲朗氏が能の秘曲「道成寺」を無事に勤めました。この日は彼が主催ですので、舞台の事以外にも、例えば弁当の準備やチケットの手配、会場費の支払いや終了後の懇親会の世話などあらゆる事をしないといけません。

私は少しでも彼の手助けになればと早くに楽屋入りするつもりでしたが別の用事でどうしても遅くなり1時間前に楽屋入り。しかしその時点で若手のほとんどはもう出勤しているのです。「早目に楽屋入ろうね」と打合せはしてないのに。そして皆が哲朗君の為に、自分ができる仕事をこなし、「哲朗君をゆっくりさせてやろう」「なるべく舞台に集中できるようにしてあげよう」という周りの思いがそこにはありました。

各々が自分の役割を心得て、仕事を取り合う事もなく、さぼる事もなく。役割を予め決めていないのに、仕事がスッと進んでいく。ハプニングがあっても、誰かが対応策を講じ、皆で対処していく。

お客様には伝わらない事かもしれませんが、そのように楽屋が役者を舞台に送り出す「構え」がしっかりしているからこそ、舞台をしっかり勤められる。

「道成寺」の装束着付けが始まった時、楽屋の中から人が知らぬ間にいなくなり、最低限の人数のみ。沢山人がいると、主役が集中できない為、そして「道成寺」を勤めた者以外は楽屋に入る事は許されない為です。勿論誰が楽屋に残って、誰が立ち去るか、打合せはありませんでしたが、自然にそうなりました。

写真は「道成寺」終了後の懇親会にて。哲朗君と、舞台に楽屋に頑張った若手達。

能の楽屋は「不思議」な世界です。