能「井筒」を終えて

レポート

去る8月8日、大変に暑い日でした。「なら燈花会能」はコロナ禍の中ではございましたが開催され、能「井筒」を勤めさせていただきました。ご来場いただきました皆様には厚く御礼申し上げます。誠にありがとうございました。
この「井筒」に向けて、随分以前から様々な準備を致して参りました。稽古はもちろんですが、その他にも数度に渡る講座の企画をしました。大阪・東京・徳島・高知の計4箇所で「井筒」のお話をさせていただき、その甲斐あって遠方からも沢山ご来場賜りました。そして、講座を重ねる度、同じ内容を話しているはずなのですが、私にとりましても色んな気付きがあり大変勉強になりました。
師匠に稽古をしていただきました折も、沢山教わる事がございました。「存在していないかのように、そこにいる」事、「何事もなく歩む」事、まだまだ会得できていない事を改めて知りました。
また、本番の前日実は岐阜にて舞台があり、終わったのが夜遅かったのですが、その折、私自身大変尊敬申し上げております諸先輩から「君、井筒を明日舞うんだってね」と、普段お話する機会はなかったのですがあちらから私の方に近付いてくださり、井筒について、どのような気持ちで勤めるか等、大変貴重な教えを頂戴できましたのも思い出となりました。
当日は色々と考え過ぎたところがあり、思い通りにいかない事もあり、正直に申しますと反省点の多い能となりました。「いつもの林本と違う」といい意味で褒めてくださる方もいらっしゃいましたが、世阿弥曰く「無心の位」に辿り着けなかったのは、今この舞台に溶け込めなかった事。今聞こえてくる囃子や、地謡や他の役の謡に対して、入っていけず(勿論主張しないといけない部分はあるのですが)、重大な反省となりました。
然しながら今回の舞台を通過したからには、次の目標までにそのような点をきちんと修正できるよう引き続き精進してまいります。

さて、この度私の「井筒」講座を聞いていただきました方は、本番をご覧になられて「あれ?講座の時の話と違うな」と思われた方もいらっしゃるかもしれません。実は数名の方からは既にその事で、終演後ご質問いただきました。
まず、私が使う予定であった能面が違っていたのです。
講座の際に三つの能面を聴講生の皆様にお見せして、「この能面の内のどれかを使うつもりです」と申し上げました。
ですが当日はこの三つとはまた別の能面を使用致しました。
実は装束をどれを使うか決める折に、とある先輩から「この能面使ってもいいよ」と見せてくださったのが、「しのぶ女」という大変珍しいものでした。私はこれを見て即座に「貸してください!」と決めてしまいました。この面は素朴でもあり、可愛らしくもあり、大和国の田舎の風情もあり、実に様々な表情を持っているような印象でした。逆に私がこの能面を使いこなせなかったかもしれません。いい能面を掛けると、演者がそれに負けてしまう事があるのです。極端に言うと、子供がロレックスの時計しているみたいな。ご覧になられた方いかがでしたでしょうか。
また、前半登場する女性は、左手に木の葉、右手に数珠を持って出ると講座で説明しましたが、こちらも違いました。
左手には水桶(中に木の葉入れてます)を持って出ました。これは替えの演出でする事があるのですが、師匠が水桶を持った方がいいと、許してくださいました。
本来はお供えの水を持ってくる設定ですので、木の葉だけ持つよりもこちらの方が理に叶っている事と、もう一つ師匠がおっしゃいました事は、「下に置くときに自分の姿が崩れない」からだというのです。なるほど確かに、下に座って床に木の葉を置くのは、手を随分下げないといけない分しんどいですし姿勢も崩れます。水桶ならばある程度の高さがあるので、少しでも楽で姿勢に影響を与えないと。
小道具一つ替えるだけでこれだけの意味が生まれてきます。本当に面白いですね。

最後に、岐阜でその先輩が仰ったこと、
「井筒は何度も演じた方がいいよ」

その意味は、井筒を終えた直後に分かった気がしました。

ご来場いただきました皆様、そしてお世話になりました能楽堂のスタッフ方々、主催の奈良能の皆様、本当にいい経験をさせていただきました。ありがとうございました。

8月8日、世阿弥の命日に、世阿弥の名作「井筒」を演じさせていただきました。